奴らは夜にやって来る


 暗闇が動いた。

 曖昧な現実と非現実の境界の向こうで、まるで屍肉に群がる蝿のように、奴らが嬉々と蠢くのが、手に獲るように解った。

 俺は今深い、深い夜の中にいる。

 冷たい風が前髪を揺らし、自分の輪郭すら朧げになった俺を撫でた。さっきまで俺を悩ませていた、軋むような脳の痛みはもう感じない。
 理由は実に簡単だ。
 ここは、もう俺の住んでいた世界じゃないのだ。
 俺の着ているこの服も、寄り掛かっているこの棚も、今、俺がいるこの部屋でさえ、俺が知っているモノではないのだ。

 再び暗闇が動いた。

 ここは、化け物の世界だ。
 俺の信じていた日常は、そいつらによって蹂躙された。かつてどこかで見た事のある姿をしているが、あれは化け物だ。言葉も、世界も通じない。だったら、奴らは化け物以外の何者でもないじゃないか。

 夜が辺りを包んでいる。
 これは包囲網だ。俺を逃がそうとしない、非日常の包囲網。俺にはそれが理解出来た。そして、奴らもそれを理解している。だから奴らは闇に紛れ生きるのだ。俺の見知らぬ知り合い達は、今境界の向こうで蠢いている。

 風が唸る。
 黒の方向が――少し動いた。
 かたかたと、狂った時計の音がする。
 俺は再び目を開けた。
 あれほど嫌いだった鉈が今では、手にしっくりとくる。
 夜が、奴らの日常がやって来た。
 全て理解している―――

 ―――奴らは夜にやって来る。



四日前/

 夏休みもあと四日で終わろうかという日の午後、唐突に宮前英嗣が家を訪ねて来た。
「あ、こんにちは。おばさん、これお土産です」
 玄関先で、母親に愛想よくお土産のアイスクリームを渡すと、そのまま二階へ、トコトコと上がって来る。こいつは俺の部屋が二階にある事を当然知っている。勝手知ったる他人の家、というやつだ。
「珍しいな、何の用だよ」
 断りも無しに上がり込んできた英嗣を、俺はきつめの視線と言葉で迎え入れた。
「何の用だよ、は無いだろ。折角、親友が遊びに来たのに、言いたい事はそれだけか。全く、俺も薄情な友人を持ったよな。普通いないぞ。友達の家に遊びに行くのに、自分でお土産買って行く奴」
 機関銃のように勝手な事を喋りながら、自分で座布団を引っ張り出して、ドカッと座る。
「そうじゃない。用があるなら俺から行ったのに。わざわざ俺の家まで来る事は無いだろ?」
「いや、いいんだ。今日、俺はお前の家に来たかったんだから。―――それより、早く食わないと溶けるぜ」
 そう言って、アイスクリームの入ったビニール袋を差し出した。どうやら、自分達の分と家族の分、二つ用意してきたらしい。相変わらず律儀な奴だ。
「そうか。お前の家なら、お前もお土産買わなくていいし、色々気を使わなくて楽だと思うんだがな」
「そうでもないぞ。確かに一人暮らしってのは気楽だがな、偶には家族ってものが恋しくなるのさ。この辺は、実家に住んでる奴には分らない悩みだと思うね。あ、それと、お土産は俺の趣味みたいなものだから、気にしなくていいぞ」
 そう言いながら、自分で買ってきたスティックアイスを、サクサクと食べ始める。
 仕方なく、俺も英嗣の買ってきたアイスクリームに手を伸ばした。見ると、味は俺の好きな抹茶になっている。こういう気配りも、流石は幼馴染、と言ったところか。
 そう、宮前英嗣は俺の幼馴染だった。
 派手な柄のアロハシャツ、短く切り込んだ金髪に、金のアクセサリー。どう見ても、チンピラにしか見えない格好のこの男は、意外にも礼儀正しく、意外にも社交的な、最近では珍しい「いい奴」である。
 本人はそんな事はない、と否定するが、俺は英嗣を嫌っている人間を見た事がない。外見は怖いが、口を開けば誰とでも仲良くなれる、そういった特殊なタイプの人間なのだ。
 口が悪く他人を寄せ付けない雰囲気を出している、らしい俺とは、はっきり言って正反対なタイプの人間だ。
 思うに、人としての容量が違うのだ。
 俺は一人分が一杯一杯、でも英嗣は余裕があるから他人を簡単に受け入れられる。英嗣は否定していたが、詰まるところが、そう言う話なのだと思う。
 だから時々、凸凹コンビだ、と言われる事があるのだが、俺にはどうも実感がない。そもそも、俺の初めての友達が英嗣なのだから、俺にとって友達というのはこういう関係を指す。それで、凸凹だ、と言われても、そんなの俺に分る訳がない。それよりも、一体どっちが凸で凹だ。
「で、事前の連絡も無しに、何の用だよ一体?」
 抹茶アイスクリームを口に運びながら、話題を一番初めに戻す。
「何だ、やけに気にするじゃんか。お前も、俺の部屋に来るのは、いつも突然だろ。別に深い理由がある訳じゃない。ただ、来たくなったから来ただけだよ」
「お前は一人暮らしだろう。でも、ウチには親がいるんだ。予め連絡が無いと、色々都合があるかもしれないだろ?」
「んん、でもおばさん喜んでたぞ」
「そりゃ、お土産に釣られたんだよ。まあ、別に良いけどさ。お前、本当に暇だよな」
「それお前が言えるのか?」
 英嗣が視線を机の上へ移す。そこには、この来訪者がやって来るまで、俺が読んでいた漫画本が、数冊、無造作に投げ出してある。
 要するに俺も暇を持て余していたのだ。
「――もう飽きたんだよ、夏休みに、さ」
 そう言って俺は自分のベッドに横になった。
 小学生や中学生ならいざ知らず、高校生にもなって、夏休みの宿題ラストスパート、なんて定番イベントは発生しない。
 散々遊びつくし、かといって勉学に励める訳でもない、夏休みと新学期の間。それが、俺の退屈の正体だ。
「贅沢な悩みだな、それ」
「そうか?」
「そりゃそうだろ。要するに、お前は休日に慣れちまった、って事だろう?」
 英嗣の妙な言葉に、俺は眉を顰める。
 休日に慣れる、というのは一体どんな表現だ。
「ああ、言い方が悪かったな。つまり、何で休日がそんなに楽しみかって言うとさ、それが特別な事だからなんだ。一週間に二日しかない。いや、もっと少ない人だっているだろう。オフの日って言うのは、俺達の生活において、珍しくて特別な日なんだよ。でも、その休日が、暫く続く夏休みも、最後の方は退屈しちまってる」
 ――確かに、英嗣の言う通りだ。凄く楽しみにしていた夏休みも、いざ突入してみたら、ただ無為な時間を過ごすだけ、という場合が多い。
「それが、慣れるって事か?」
「ああ、多分。ほら、夏休みの最後の方ってさ、新学期が楽しみだったりしただろ、そういう事さ。あれは、休日に慣れて、学校に行くのが、特別な事になっちまったんだ」
 なるほどね、と俺は正直に頷いた。
 つまるところ、俺も英嗣も、この長い夏休みに『慣れてしまった』に過ぎないのだ。そう言われれば、確かに贅沢な悩みではある。
「だから、俺は少しでも特別な事がしたくて、今日は気分を変えて、お前の家にこっそりお邪魔した訳だ」
「――それが言いたかった訳ね」
「お前が訊いたんだろ。俺は答えただけだ」
「いや、そうなんだけどさ・・・・」
 何となく肩透かしを食らった気分だ。本人は初めからそれが語りたかったんだろうけど、聞いてたこっちは、結構真剣だったのだ。
「特別な事って言えばさ。お前、幣原美枝って覚えてる?」
「シデハラ・・・・ミエ?」
「そうそう。ほら、高一の時に同じクラスだった、地味で目立たない女の子」
「――――――――」
 ああ、何か思い出したかも。
 確かにそんな女子がいたのは覚えている。あんまり人に話しかけなくて、友達も多くない。そんな、どこのクラスにでも一人はいる目立たない子だったはずだ。
 ただ、正確にどんな奴だったのかは思い出せない。俺は普通の奴とだって、あまり会話をしないのだ。そんなに目立たない子と頻繁に会話をする訳もない。
 顔や声、全体像すらはっきりしない。そもそも彼女は、幣原美枝、という名前だったのか。
「何となく覚えてるよ。その彼女がどうかしたのか?」
「最近気付いたんだけどさ、彼女、俺の隣の部屋に住んでたんだよ」
「へー、そうなんだ」
 それだけかよ、と俺の素っ気無い反応に、英嗣が不満を垂れる。
 確かに薄い反応だとは思うが、そもそも覚えていないのだから、驚きようがない。
「幣原ってさ、かなり地味なイメージだったじゃん。それがさ、昨日見たら、何か、変だったんだよ」
「変って?」
「この暑いのに黒い長袖着てさ、サングラスして。何かお忍び中の芸能人みたいな格好してさ、数人の男を引き連れて、自分の部屋に入って行ったんだよ。正直、かなり驚いたぜ」
 黒い服にに身を包み、男達と遊び騒ぐ、幣原美枝。
 あやふやなイメージではあるが、少なくとも、俺の中のイメージとは一致しない。
「別人じゃないのか。珍しい苗字だけど、全くいないって訳じゃないだろう?」
「そう思って、一年生の時の連絡網を調べたんだよ。そしたら、確かに住所は合ってたぜ」
「・・・・・暇なんだな」
 まあな、と自慢しているのかすら分らない返事をする英嗣。
「じゃあ、イメチェンでもしたんじゃないのか。久し振りに会ったら、すっかり変わってた、何て良くある話だろ」
「うん、そうなんだけどなぁ・・・・・」
 そう言って、英嗣は真剣に考え込んでしまう。
 基本的に、頭の回転と決断力だけは早い英嗣にしては、かなり歯切れが悪い。
「―――幣原って、ロック好きだったか?」
「ロックって、あの音楽とかの?」
「そうそう。何か引っ掛かるんだよなぁ・・・・・」
「だから、何が」
 一向に話が見えてこない。そもそも、幣原がロック好きだったのか、なんて俺が知る訳がない。
「幣原の奴さ、目が赤かったんだよ。それってカラーコンタクトって事だろ?」
「それで、ロックって言ったのか。うーん、そうとも限らないんじゃないか。ファッションでやってる人もいるだろうし・・・・というか、別に幣原がロック好きでも、おかしくはないだろ」
 俺の言葉に、一応は頷くものの、英嗣はまだ何かを考え込んでいる。
「何だよ、歯切れが悪いな。気になる事でもあったのか?」
 ああ、と英嗣は曖昧な角度で頷いて、
「―――それがさ、幣原の周りにいた男達も、全員同じように、赤い目をしてたんだよ」
 そんな怪談みたいな事を口にした。
 一瞬、その光景を想像する。全身黒い格好にイメチェンした赤い目の元クラスメイトと、同じく赤い目をした男達。
 流石に、ちょっと異常な光景だ。
「・・・・怪談だな、そりゃ」
「一緒のロックバンドでもやってんのかなぁ」
 どうやら、英嗣の中では、赤いカラーコンタクト=ロック、の構図が出来上がっているらしい。
「ま、何にせよ、特に気にする事もないだろ。そんなに親しい訳じゃなかったんだろ?」
「ああ、会話した事はあると思うけどな。ま、その程度だ・・・・・って、お前、アイス溶けてるぞ」
 気が付いたら、掌に冷たい感触が広がっている。見ると、カップの中身は完全に液体になってしまっていた。
「話に夢中になり過ぎたな」
「全くだな、ほら、ティッシュ」
 英嗣は部屋にあったティッシュ箱を投げてよこした。
 溶けたアイスクリームを拭きながらも、俺はずっと、幣原美枝の事を考えていた。
 未だ顔すら思い出せない、元同級生。
 そう。
 今にして思えば。
 この時から既に、それは始まっていたのだ。



三日前/

 昼食を家で食べてから外に出る。
 瞬間、熱された空気が一斉に襲い掛かってくる。
「くそ・・・・・今日も暑いな」
 目的地は英嗣の住むマンション。俺の家から数十メートル離れた場所に建つ、茶色の建物だ。
 英嗣はそこで、一年前から一人暮らしをしている。
 元々、英嗣は俺の家のすぐ隣に住んでいた。それがマンションで一人暮らしをはじめたのは、両親の離婚が原因だった。
 詳しい事は知らない。英嗣によれば、元々あまり仲の良い夫婦なかったのが、些細な切欠で破綻したのだそうだ。
 当然、息子である英嗣はどちらかの親に付いて行かねばならなくなったのだが、英嗣はそれを拒否、突然一人暮らしをはじめたのだ。
 曰く、親同士の喧嘩に子供が巻き込まれるのは勘弁して欲しい、とかなんとか。
 一騒動の末、英嗣は近くのマンションで、一人暮らしを開始。そのまま今に至っている。
 そういう事情があってか、英嗣はあまり両親の話をしたがらない。昨日は、家族が恋しくなるから俺の家に来る、などと軽口を叩いていたが、そういう意味では、英嗣は家族に恵まれていないのかもしれない。
 無人のエントランスを潜る。
 いつもは窓から、心地良いくらい日焼けした管理人のお爺さんが顔を覗かせているが、今日はカーテンが閉まっている。どうやら不在のようだ。
 そのまま、エレベーターホールへと歩く。このマンションは、さほど大きい建物ではないのだが、立派なエレベーターが一基設置されている。
 英嗣の部屋は四階。階段を使っても構わないのだが、この暑さの中、階段で四階に上るほどマゾじゃない。俺は、迷わずエレベーターを選択した。
 エレベーターに乗り込み、四階で降りる。英嗣の部屋は廊下の一番奥。南側に面した角部屋だ。
 その部屋へと向かう途中。何気なく、視線が、とある部屋の前で止まった。
 英嗣の部屋の丁度隣。褐色に塗装された鉄の扉。他の部屋となんら変わらないその扉には、『幣原』と、汚れた表札が掛かっていた。
「――――」
 昨日の英嗣の話しを思い出す。
 すっかり様子の変わった元同級生と、赤い目をした奇妙な一団。その怪談のような馬鹿げた光景が、一瞬、脳裏に浮かぶ。
「・・・・・何を、馬鹿な」
 俺は、そのふざけた想像を振り払い、英嗣の部屋のインターホンを押した。


「なるほど、今日はお前が俺の家に来た、という訳だな」
 昼も過ぎていると言うのに、まだ寝巻きのままだった英嗣は、寝癖を撫で付けながら、何やら格好のよさそうな事を言った。
「何が、なるほど、だよ。この時間まで眠ってた野郎に言われたくないね」
「仕方ないだろ。昨日は―――色々、寝付けなかったんだよ」
 そう言って、英嗣は口篭る。さっきの勢いはどこへ行ったのか。何故か、そこだけ歯切れが悪い。
「寝付けなかったって、何でだよ?」
 俺の質問に、恨めしそうな視線を送ると、英嗣はさっきまで寝ていた布団に、ドカッと、腰を下ろした。
「―――昨日、言ったろ。ほら、幣原の話」
「ああ、赤いカラーコンタクトの話か?」
 俺は、何故か一瞬考え、思い出す振りをした。
 本来なら、思い出すまでもないい。俺は、今日ここに来る前、幣原の家の前で、それを思い出していたのだ。
「昨日、お前の家から帰る途中・・・・・・また、見たんだ」
「見たって、その黒づくめのカラコン集団か?」
 英嗣のしていた、昨日の話を思い出す。
 夏なのに、全身を黒い長袖に身を包んだ怪しげな男達。そして、全員が共通の赤いカラーコンタクト。
「―――そうなんだ。いや、正確には違うのか」
「何だよ、歯切れが悪いな、どっちなんだ?」
 英嗣は、少し考えるような仕草をして、どっちもだ、と更に訳の分らない事を言った。
「どっちも?」
「ああ、つまり――赤い目の奴らを見たんだが、この前の男達じゃなかったんだよ」
 そう言って、英嗣は俯いた。
 じわり、と額に汗が滲むのが分った。エアコンが効いてないのかこの部屋は妙に暑い気がする。
「この前の奴らじゃ、なかった?」
「昨日の帰りだ。このマンションの入り口で、高木さんとすれ違ったんだ」
「高木さんって、いつも話に出てくる?」
 一人暮らしをしている英嗣を何かと助けてくれる一家がいる、という話は、いつも英嗣から聞かされていた。
「うん、その旦那さんだ。多分、仕事帰りなんだろうけど、立ってたんだよ。マンションの入り口に」
「―――立ってた?」
「ああ、誰かを待ってるって感じじゃなかったな。ぼーっとマンションを見上げててさ。何してるんだろうって、声を掛けたんだよ」
 俺はその様子を頭に思い描く。
 英嗣が帰ったのは七時過ぎ。そんな時間に、一人でマンションの前に佇む仕事帰りの男。
「――――赤かったんだ」
「瞳が、か?」
「振り向いた瞳が、真っ赤だった。俺も、流石に怖くなってさ。そのまま走って部屋に逃げ帰ったんだよ」
 ははは、と英嗣が空笑いする。
 まるで冗談のように言っているが、もしも実際に遭遇したらそれどころではないだろう。
「それ、見間違いとかじゃないのか?」
「だ、だよな、やっぱ。いくらなんでも、高木さんの目が赤くなってるわけないもんな・・・・・」
 そう言って笑う英嗣を見て、俺はその光景が事実だったのだと確信した。
 そもそも、俺はそんな光景を見ていない。
 だから、その真偽を見分ける事は、俺には出来ない。それを承知で、英嗣は俺にそう聞いてきた。恐らく、自分の見たものが間違えであると、俺が軽く打ち消してくれる事を期待して。
「――――」
 でも、俺は沈黙で答える事しか出来なかった。
「・・・・・疲れてるのかな、俺」
 そうではない、と否定する事も出来ない。
 きっと、俺が何を言ったところで、それは気休めにしかならないだろう。英嗣の中で、その時の光景は、紛れも無い『真実』なのだ。
 話はそれで終わりだった。
 それ以上、進展する事もないまま、それ以上、打開も出来ないまま、俺は英嗣の部屋を逃げるように後にした。
 ――――後味が悪い。
 気が付くと、あたりはもう暗くなり始めていた。暗澹たる気持ちに拍車をかけるように広がる夜の帳は、周囲を物言えぬ閉塞感で包んでいく。
「早く、帰ろう」
 自然と声が出ていた。
 廊下を歩き、待機していたエレベーターへと乗り込む。昼にも行ったはずのその動作が、圧倒的な違和感を放ち俺に圧し掛かる。
 何故だろうか。
 今日だけじゃない。英嗣の家に来る時は、いつも同じような動きで、廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。なのに何故、今回だけ、こんなにも違和感があるのだろうか。
 赤い目の話を聞いたからか。
 いや、それだけではなく―――
「あっ――」
 いつの間にか、エレベーターが一階に辿り着いていた。
 どのくらいぼーっとしていたのか。焦って、ボタンを押すと、鉄の扉がゆっくりと開いた。
「―――――」
 初めに感じたのは妙な臭いだった。
 嗅いだ瞬間は香水だと思ったが、違う。近いのは線香の臭い。その昔、祖母の葬儀で嗅いだ事のある、あの抹香に似ている。
 その臭いに包まれるように、管理人さんが立っていた。
 淡い緑色のツナギ姿。いつもと同じ、英嗣の家に遊びに来た俺を、笑顔で迎えてくれる、あの管理人さんだ。
 そう。いつもと何も変わらない。
 その管理人さんが、歪に背中を曲げた妙な姿勢のまま、鉄の箱の前に立っている。
 時間にして、ほんの一瞬だったのだろう。
 管理人さんは、エレベーターの中で固まっている俺に目をくれる事もなく、足早で乗り込んでくる。
 ―――その、瞬間。
 位置としては、ほとんど真後ろ。
 すれ違う瞬間に、管理人さんと目が合った。
 まるで、血のように紅い瞳。
 その色合いは、鮮血というより、濁った静脈を思わせる。
「――――」
 音も立てずに扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと上に昇っていった。
 一人になったエレベーターホールで、俺は閉まり切った鉄の扉をただただ眺めている。
「ああ、そうか」
 俺はそこで、一つの答えに辿り着いていた。
 あの臭い。祖母の葬式を連想させる、線香のようなあの臭い。
 あれは、線香などではない。
 あれは―――死臭だ。
 当然、俺は気付きもしないが、その外では、夜の帳とは違うものが、確実に世界を変質させていた。



二日前/

 英嗣からメールが来たのは、その日の深夜の事だった。
 日付も変わり、そろそろ眠ろうかと思っていた時、俺の携帯電話が、メールの着信を告げた。
 英嗣とは昨日家に行ったきり、連絡を取っていなかった。
 話さなければならない事、考えなくてはならない事は沢山あったが、それを英嗣に伝えれば、確実に事態は進展する。俺は、何よりもそれが怖かった。
 何も話さなければ、何も考えなければ、俺の日常が崩れ去る事はない。まるで、あらゆる事態を否定するように、俺は一日中部屋に篭っていたのだ。
 でもそんなものは、英嗣からのメールで全て吹き飛んだ。
『助けてくれ。もう駄目かもしれない』
 飾りもなく、簡単で簡潔な文章。だからこそ、のっぴきならない事態が起こっている事を、俺は感じ取た。
 身支度もそこそこに家を出る。
 親はもう眠っているので、起こしはしない。そもそも、起こしたところで、何と説明していいか俺には分らない。
 英嗣の住むマンションは、夜の中に沈んでいた。
 歪んでいる。この場所は、取り返しが付かないくらい、歪みきってしまっている。
 悪寒が走る。
 俺はエレベーターを使わずに、四階へと上った。幸いな事に、部屋に辿り着くまで、誰にも会う事はなかった。
「英嗣、俺だ。開けてくれ」
 どれくらい間があっただろうか。チェーンの外れる音と共に、扉が力なく開いた。
「―――英嗣」
 ゆっくりと中へ入る。
 部屋に灯りは点いていない。カーテンも締め切られ、この様子じゃ昼間でもほとんど日光が入ってこないだろう。
「・・・・・・・・やあ、いらっしゃい」
 そんな部屋の真ん中に、英嗣が座っていた。
 頭から布団を被り、膝を抱えるように蹲っている。暗くて確認できないが、その表情は酷く憔悴しているように思える。
 俺がこの部屋を訪ねたのは、ほんの一日前の事だ。でも、ここに立っていると、とてもそうだとは信じられない。
 それほどまでに、この部屋は荒れていた。
「どうしたんだよ、もう駄目かもしれないって、何があった?」
「・・・・・・・・増えてるんだ」
「何?」
 英嗣は、焦点の合わない目で俺を見ながら、もう一度、増えてるんだ、と力なく繰り返した。
「何が増えてるんだ。分るように説明してくれ」
「・・・・・・・訪ねてくるのさ、何度も何度も。いくら答えても居留守を使っても、何度も何度も。こっちがいてもいなくても関係ない。奴らは、俺が出てくるのを待っている」
 いつもの饒舌さは微塵もない。それは病的なほど単調な口上だった。
「訪ねてくる?」
「ああ、もう昼間だけじゃない。夜も引っ切り無しだ。増えているんだよ、確実に。多分、フロア・・・・・このマンションでは、俺だけが違うんだ!」
「―――落ち着け、順を追って説明してくれ!」
 激昂する英嗣の肩を掴んだ。
 本来なら、もっと丁寧に落ち着かせなきゃいけないのだろう。だが、今の俺にそんな余裕はない。
 俺は、自分自身も呼吸を整えながら、もう一度、落ち着いて説明するように促す。
「・・・・・・訪ねてくるんだ。俺が部屋の中にいたら、誰かがチャイムを鳴らすんだよ。だから、声を出して、ドアに近付いても、反応がないんだ」
 英嗣の視線が宙を泳いだ。
 恐らく、俺の背後にあるドアを見ているんだろう。
「悪戯か何かだと思って、無視したんだ。そしたら数時間後に、またチャイムが鳴るんだ。また返事がない。だからまた無視する。そしたらまたチャイムが鳴る。また返事がない。・・・・・だから、俺、ドアの外覗いて見たんだ。そしたら―――」
 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
 この場には、不釣合いな間の抜けた音が鳴った。
 それは規則正しく三回。
 来客を表すチャイムを外の誰かが押したのだ。
「――――――――」
 ならば、当然誰かが対応しなければならない。
 ―――だというのに、俺達は固まったように動く事が出来なかった。
「俺が、出る」
 時間にしてどれくらいだったのだろうか。
 俺は英嗣を残して立ち上がり、ドアの方へと向かった。
 きっと何でもない。ただ、宅急便が届いただけなのに、俺達が脅えているだけ。それだけの事だ。
 そんな有り得ない願いを信じながら、俺は扉に取り付けられた穴をゆっくりと覗き込んだ。
「――――――」
 最初、その光景を理解出来なかった。
 穴の向こう側。扉の前に映っているのは、宅急便の配達員でも、親切な隣人の訪問でもなかった。
 ―――真っ赤に染まった赤い世界。
 それが、紅に染まった眼球が、その穴から逆にこちら側を覗き込もうとしている光景だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「・・・・・・・・くっ!」
 声を押し殺して飛び退く。
 転げるように部屋の奥へと戻った俺を、英嗣は哀れむように乾いた瞳で見つめていた。
 これが、日に数回。
 とてもじゃないが耐えられない。
 奴らは、俺達がこの中にいると知っているのだろう。それなのに、呼び鈴を鳴らすだけで、決して中には入ってこない。もしも、俺達が奴らの存在に全く気が付いていなかったら、何の疑いもなく、あのドアを開けていただろう。
「―――あれは、何だ」
 俺は、その根本的な疑問を口にする。
 認めない訳にはいかない。勘違いでも、気のせいでもない。間違えなく、このマンションで何かが起っている。
 はじめは、他愛の無い噂話だった。姿の変わった元クラスメイト。そしてそれが、奇怪な隣人という怪談に変わり、今では認めざるを得ない現実になっている。
 ならばその根本。
 そもそも、あれは一体何なのか。
「分らないさ。知りたくもない。アレには、関わっちゃいけない」
 それは英嗣の本心だったのだろう。
 まるで衰弱した動物のように、英嗣はその現実との直面を避けている。
「・・・・・・気持ちは分るが、もうそんな事を言ってる場合じゃない。現実を見ろよ、英嗣。アレは、もう無視出来る存在じゃない」
「それでも、俺には関係ないさ。だってそうだろ。お前は部外者だが、俺はこのマンションに住んでるんだぜ・・・・!」
「おい、それは―――」
 反論しかけて、口を噤む。
 いくら俺が言ったところで、今の英嗣には届かない。英嗣はこのマンションで既に一日過ごしているのだ。俺の言葉など、紙切れよりも薄く見えるだろう。
 なら、何が言えるというのか。
 結局、俺達はそれから一言も言葉を交わすことも無く、朝を迎えた。
 不思議なものだ。
 昨夜のうちに、俺達の住む世界は一変してしまっているというのに、ごく当たり前のように日は昇る。まるで、何も起ってなかったんじゃないか、とさえ思えてくる。
 ―――でも、それは幻想だ。
 ならば、立ち向かわなくてはならない。そう考えると、確かにこれから取るべき道も、自ずと見えてくる。
「英嗣、暫くウチに来ないか?」
 突然口を開いた俺に驚いたのか、それともその内容に驚いたのか。英嗣は怪訝な目で俺を見ている。
「どの道、このマンションは危険だ。なら、暫く俺の家に泊まらないか。広くはないが、お前一人くらいだったらなんとかなる」
 選択肢はそれしかなかった。
 これ以上、このマンションに、英嗣を残しておく事は出来ない。なら、英嗣をマンションから連れ出し、それからこの問題に対処する。
 実際、これは答えの先延ばしに過ぎないのだろう。
 それでも、今はその余裕が、俺と英嗣には必要な気がした。
「お前―――」
 そんな俺の意図を察したのか、英嗣は少し後ろめたそうに俯いた後、ありがとう、と小さく呟いた。
「よし、なら膳は急げだ。早速移動しよう。お前は必要最低限なものを持ってくればいいぞ」
「移動って・・・・今からお前の家に行くのか?」
「ああ、もたもたして、あいつらと鉢合わせしたくないだろ?」
 その言葉で直ぐに納得したのだろう。英嗣はものの五分程度で準備を済ませると、俺とともにマンションを出た。
 時間は五時過ぎ。
 幸い、マンションの中にも外にも人影はなく、俺達はすんなりと外に出ることが出来た。
 気分的には決死の脱出だというのに、夜闇を払うように差し込む朝日にその緊迫感は一切ない。
 いつも以上に平和で朗らかな風景。だからだろう。実は全てが俺達の勘違いで、この脱出も全てが馬鹿げた行動で、十年後くらいには笑い話の種になる類の出来事なんじゃないか、と思えてくる。
 でも、それは幻想なのだ。
 俺はもう一度、一夜を過ごしたマンションを振り返る。
 逆光のせいか。影に塗りつぶされたその巨体は、酷く歪んでいるように見えた。


「こんな朝から・・・・迷惑じゃないか?」
 俺の家の前まで辿り着いた時、英嗣はそんな心配をし始めた。今はそんな事を言っている場合じゃないのだろうが、そこが英嗣らしいとも言える。
「平気さ。ウチの親は朝が弱いからな。この程度の事じゃ起きたりしないだろう。親が起きたら、改めて説明すればいいさ」
 何と説明するのか、そういう問題はなくもないが、基本的に俺は心配していなかった。ウチの親は英嗣を気に入っている。突然の宿泊でも、問題なく受け入れてくれるだろう。そして、全てが落ち着いた後、あのマンションの問題に対処していけばいい。
 そう―――あのマンションの問題。
 思えば、この時の俺は、あくまでも傍観者だったのだろう。英嗣とともに奴らに挑む覚悟を持ちながら、何処かでまだ傍観者だったのだ―――この扉を開けるまで。
 一晩経った我が家は、些細な違和感に包まれていた。
 上手くは言えないが、例えるならば、旅行から帰って来た時家に対して感じる違和感に近い。
 でもこれは、本当に些細な違和感だ。気にするまでも無い。この妙に埃っぽい線香のような臭いが、そう思わせるだけだ。俺はそう言い聞かせて、玄関に入る。
 そこで、誰かが目の前に立っている事に気が付いた。
「か、母さん―――?」
 そこに眠っている筈の母親が立っていた。
 言葉が出てこない。訊きたい事は沢山あった。何故朝の弱い母親が起きているのか、何故玄関に立っているのか、何故そんなに歪な姿勢なのか、何故―――目が紅いのか。
「――――」
 母親だったモノは、俺達を一瞥すると、そのまま音もなく家の中へ戻っていった。
 結局、訊ねる事は出来なかった。
 いや、答えは既に知っていた。
 ただ完全に世界が壊れてしまった実感と、当事者へと変わった自分の立場を確かめたかったのだろう。
 俺は、一度部屋に戻って、軽く準備を済ませた。
 二人は一言も言葉を交わさぬまま、外へ出る。
 ―――結局、俺は最後まで、かつて自分が住んでいたその家を振り返る事はなかった。



一日前/

 静寂が世界を包んでいた。
 暗闇の中で、ただ息を殺していると、人は自らの内面に目を向け、その奥底へと深く、深く潜っていく。
 自らに発し、自らに結する。
 その止め処ない堂々巡りは、世界に目を向けない方法であり、何とか自分を守ろうとする手段でもあった。
 そもそも、世界とは定義しきれるものじゃない。
 自分以外のものを全て世界だとするならば、人間は立ち行かなくなってしまう。自分対世界。笑い話にもならない比率だ。
 だから、人は世界を自分の裁量で区切り、その中で生活する。その区切りは決して破られる事の無い境界線であり、その人の日常そのものでもある。
 そう、破られる事はないのだ。
 破られるはずの無い区切りが、唐突に破れてしまったら。自身の日常は漏れ出し、世界という名の非日常が氾濫する。
 そうなったら―――どう生きればいいのか。
「――――」
 俺は唐突に我に帰っていた。
 時間の感覚が曖昧だ。今が何時なのか、今が昼なのか、夜なのか。それすらも分らない。
 結局、俺達はあの後、英嗣の部屋まで引き返していた。
 一軒の家である俺の家より、完全な部屋として独立している英嗣の部屋の方がより安全だろう。そんな事を考えたのか、それともただあの場所から逃げたかっただけなのか。
 未だに考えは纏まらない。しかし、このままではいけない。
「ふっ―――」
 俺は、何かに縋るようにゆっくりと起き上がった。あれからどれだけ経ったのか、全身の節々が刺すように痛い。
 よろよろと、窓際に進む。薄いカーテンを軽く捲ってみると、忌々しいほどに鮮やかな夕陽が飛び込んでくる。時間は五時半。どうやら、半日以上茫然自失に陥っていたようだ。
「・・・・・・よう、気が付いたか」
 声に振り返ると、部屋の隅に、蹲るような姿勢の英嗣がいた。光の加減で表情は解らないが、随分と憔悴しているように見える。
「英嗣、平気か?」
「・・・・ああ、もう何が起こっても平気なくらい平気だよ」
 英嗣の言葉はどこか投げやりな印象を抱かせる。全てを諦めてしまったような、そんな印象だ。
「これから、どうすればいいと思う?」
「これから・・・・・おいおい、これから、何てないだろ。奴らは増えて続けている。このマンションだけじゃなく、外の世界にもだ。そんなの相手に、これからもないだろ?」
「だけど、このままって訳にはいかないだろ。確かに奴らは増えているが、あれはウチだけかもしれない。街に出てみたら、普通の人だって―――」
「無駄だよ。それは無駄だ」
 そう言って、英嗣は俺の希望をばっさりと斬り捨てた。
「俺はさ、半日以上ここに座って、外を眺めてたんだ。そしたらさ、笑っちまうぜ。人っ子一人通らないんだ。学生もサラリーマンも主婦も、子供すら歩いてない。この街は、もうゴーストタウンなんだよ」
 何がおかしいのか、英嗣はニヤニヤ笑っている。
 だが、そんな英嗣の態度が気にならなくなるほど、その事実は衝撃だった。
「ま、街中の人間・・・・・全てか?」
「さて、それはどうかな。少なくともこの一帯の人間はみんな変わっちまってるだろうが・・・・・しかし、広がっていくスピードを考えると、この街、いや、それ以上の範囲が変わってるかもしれない」
「そ、そんな―――」
「有り得ない事じゃないだろ。ほら、吸血鬼と一緒だよ。一人が二人を噛めば、その二人は吸血鬼になって、それぞれ新しい二人を噛む。そしたら噛まれた奴らが新しく噛む・・・・・そんな感じで続けていけば、あっという間に世界は吸血鬼だらけだよ。それと同じさ」
 それは英嗣の軽い例え話だったのだろう。だが、今の状況をそれ以上的確に表しているものはなかった。
 奴らは確実に増えている。
 奴らが一体何者なのかは解らない。ただ、奴らが人間を自分達と同じように変える事が、意図的に行えるのだとすれば、奴らは吸血鬼と変わらない。その変化させる方法が解らないだけで、在り方自体はまるで吸血鬼なのだ。
 それに、英嗣は無人になってしまったかのような街の有様を見て、奴らが増殖している事を確信した。しかし、街は無人になった訳ではない。それに、今までの話を考えると奴らが外に出られない、という可能性もない。
 だとしたら、奴らは昼間に外出する事が出来ない。もしくは、外出する事が難しいのではないのか。
「―――吸血鬼」
 口に出してみて、その馬鹿馬鹿しさに笑いたくなる。
 こんな事にならなければ、そんな存在を信じる気にもなれなかっただろう。
 でも実際に、俺達のこの世界は、吸血鬼じみた奴らに征服しかけられている。
 英嗣は言った。あっという間に世界は吸血鬼だらけになる、と。それはその通りだろう。奴らが本当に、吸血鬼ならば、世界は一週間もしない内に、俺達だけを残してみんな吸血鬼になる。
「―――俺達だけを残して?」
 突然湧いた疑問だった。いや、その疑問は最初からずっと根底にあったのだ。
 何故、俺達は無事なのだろう。
 考えるまでもない。俺達は事前に奴らの存在を察知出来ていたからだ。もし、奴らの存在を知らなければ、俺の母親のように、あっと言う間に変えられていただろう。俺達は、奴らが爆発的に広がる前の初期段階に、奴らに気付いたのだ。
「初期段階、だと?」
「何だって?」
「いや、そもそも始まりは何だったんだ。奴らが街中に、いやそれ以上に広がっているこの状況。そもそもの始まりは何だったんだ?」
 俺達はそれを知っている。知っているから、こうして残っているのだ。
 自らに発し、自らに結する。
 世界中に広がいつつある奴ら、変わり果てた街、人ではなくなった母親、変貌したマンションの住人達、赤い目をした集団の噂―――そして、始まりは―――
「―――幣原、美枝」
 辿り着いた。
 そこが始まり、それこそが全ての原点。
 俺達は彼女を知っていたから、彼女の変貌を知っていたから、こうして生き残っているのだ。
 彼女が始まりであり、恐らく終わりなのだ。
「英嗣、行こう、彼女の部屋に」
 俺の言葉の意味を理解して、英嗣は飛び上がるように立ち上がった。
「行くって・・・・じょ、冗談じゃない、もう直ぐ日が落ちる。そしたら奴らの時間だぞ。さっき言っただろ。昼間には誰も外を出歩いてないって・・・・・」
「問題ないよ。俺は幣原美枝に会いに行くんだ。昼間よりは、夜の方が起きていそうなんだろ?」
 英嗣は、信じられない、といった表情で俺を見ている。
 確かに、考えれば、これは自ら敵の陣地に乗り込むようなものだ。一歩間違えなくても、確実にやられてしまうだろう。
 それでも、俺の考えは変わらなかった。
「―――もう終わりにしたいんだよ。吸血鬼なんて馬鹿げた日常はね」


 英嗣の部屋の直ぐ隣。
 その扉は、異質な場所と繋がっていた。
 他の部屋と変わらない褐色の鉄扉。『幣原』という汚い表札が掲げてある。
 二日前と何も変わらない光景。
 しかし、俺は全く違った心境でこの場に立っている。
 それは、無理矢理言葉にするなら、決死というのが近い。いずれにせよここで終わらせる。それが、どんな最後であろうと決着を望む、俺の本心だった。
 ―――しかし、英嗣はどうだろうか。
 俺は、斜め後ろに立っている英嗣の顔を盗み見た。
 恐れとも、緊張とも、後悔とも取れる表情を浮かべながら、目の前の扉をじっと見つめている。
 英嗣はここへ来る事を、ずっと反対していた。問題は、それが本当に恐怖から来る反対なのか、という事だ。
 今、俺の右手には農作業用の鉈が握られている。元々、英嗣の家にあったもので、昔は、草むしりをする時に使っていたらしい。英嗣は、この部屋を訪ねる条件として、この鉈のような武器を持っていく事を譲ろうとはしなかった。
 どんな危険があるか分らないから、という理由ならば、英嗣は恐怖からここへ来る事を反対したのだろう。
 それならば、問題はない。俺にだって、恐怖はある。それは程度の問題で、重要な事じゃないはずだ。
 そう―――本当にそれだけならば。
「・・・・・・・っ」
 俺は、頭の中の考えを無理矢理打ち消して、目の前の扉を睨み付けた。ここでウダウダ言っていても仕方ない。そもそも、この奥に入れば、全てが終わるはずなのだ。
「―――行くぞ、英嗣」
 俺の声に、背後で微かに動く気配がした。
 それを肯定と受け取った俺は、ドアノブを握り締め、ゆっくりと扉を開ける。確認なんて必要ない。どの道、ここが終着なのだ。
 ―――扉は、あっけなく開いてしまった。
 まず感じたのは、底のないような闇と、例の臭いだった。
 最初の一歩、一歩、そしてまた一歩。踏み出すたびに、ここが俺達のいる場所とは違う場所なのだと、経験し確信する。
 ここは、非日常であり別世界だ。
 このマンションは、左右の違いこそあれ、どの部屋もみんな同じつくりをしている。当然、この部屋も英嗣の部屋と、同じ構造をしているはずなのだ。
 だというのに、ここは何故こんなに先が見えないのだろう。
 俺は、構わず部屋の奥へと奥へと入っていく。
 真っ赤な夕陽が、あらゆる隙間から、部屋の中に入り込んできている。だから、視界自体は悪くないはずなのだ。でも、この部屋に親しみも既視感もない。
 足元が覚束無い。足の裏の感触が曖昧だ。
 何とか壁伝いに進み、俺と英嗣はその部屋の一番奥へ辿り着いていた。
 リビング、と呼ぶべきなのだろうか。部屋の中で最も大きいこのスペースは、昨日俺と英嗣が一日中いた場所でもある。
 その窓際。
 夕陽を後ろに背負うその場所に。
 赤い目を持つ非日常達の女王が、静かに鎮座していた。

「―――いらっしゃい、意外に遅かったわね」

 その声にも、
 その姿にも、
 見覚えはない。
 だというのに、俺は彼女を知っていた。
「幣原、美枝」
 全ての始まり、そして俺達が辿り着いた全ての答え。
 俺達は、ここに来て、漸く対面を果たした。
「あら、覚えていたのね。てっきり忘れてしまっているかと思っていたわ」
「いや・・・・・・悪いが、あんたの事は覚えてない。でも、俺達がここに来なければいけなかった事くらいは、分っている」
「正直なのね。それに・・・・・勇気もある」
 彼女の赤い瞳が爛々と輝く。
 何を考えているのか。そんなものは推測するまでもない。
 彼女は楽しんでいる。俺達がここに辿り着いた事を、心の底から楽しんでいるのだ。
「・・・・・・別に、勇気とかそういうのは関係ない。俺は、お前ら吸血鬼が何の目的でこんな事をしているかが知りたいだけだ」
「吸血鬼?」
 彼女の表情が変わる。
 さっきとは打って変わって、きょとんとした呆気に取られたような表情になり、
「―――吸血鬼、なるほど、それは思い付かなかった」
 そう耳障りな音で、鳴いた。
「けど、私達は吸血鬼じゃない」
「血を吸わない、という意味でか?」
「ええ、それもあるけど、もっと根本的な問題」
「根本的?」
「―――貴方は、どうして吸血鬼は血を吸うんだと思う?」
 吐息のような喋り方。
 耳にするたび、ぎちぎちと脳が締め付けられる。
「血が・・・・血液が食料からだから、だろ?」
「そうね。だから、吸われた人間が吸血鬼になるのは、ある意味、副産物みたいなもの」
 英嗣の知人、マンションの管理人、そして俺の両親。
 あの見知らぬ隣人達は、全て副産物か。
「でも、私達は違う。私達は、増える為だけに存在している」
「―――増える、為だけ、だと?」
 ぎちぎちと音が煩い。
 女の言葉が、上手く理解出来ない。
「これは素晴らしい能力よ。新たに増えるのではなく、作り変える事によって増える」
「何の為にだ?」
「意味なんてないのよ。私達は増える為の存在だから。でもね、私が変えた」
「変えた?」
「そう。増えるだけだった私達に、この私が、意味を与えたのよ」
 平衡感覚がおかしい。動いてもいないのに、身体がふらふらとする。そもそも、今、俺は何を話しているんだ?
「素晴らしい力よ。世界を作り変えるのに、最も適した方法。侵略とか戦争とか、そういった野蛮な方法じゃない・・・・・・言うならば、革命、と言うのが近いかしら?」
「革命だと。ふざけるなよ。人を化け物に変えてしまう事が、お前らの革命か?」
「化け物―――ふふ、どうやらあなたは、大きな勘違いをしているみたいね」
 太陽がゆっくりと沈んでいく。
 その夕陽を背負うように佇む彼女も、ゆっくりと影に縁取られていく。
「私達は、構造的にほとんど人間と変わらないわ。違うのは、睡眠のサイクルが人間と大きくずれる事―――」
 昼間だというのに、ゴーストタウンのようになった街。
 あれは、ただこいつらにとって、昼間が睡眠をとる時間だっただけの事だというのか?
「それに合わせて目の構造も一部変化するわ。夜目が利くようになる。だから、基本的に夜に活動する、という点では、私達は伝説上の吸血鬼に近い存在かもしれないわね」
 あの血のように赤い瞳。
 それを、夜目が利くようになるだと? まるで大した事じゃないように語るのかこの女は。
「そして一番重要なのが、私達特有の本能が付加される点」
「――本能?」
「ええ、ある種の生存本能みたいなものね。人だってそうでしょ。人間は人間に害するモノを許容したりはしない。私達も、私達を害するモノを許容しないし、仲間達を守ろうとする意識が芽生える」
「な、仲間意識みたいなものか?」
 今まで押し黙っていた英嗣が口を開いた。
 幣原美枝だったモノは、ええそうよ、と言って笑う。
「どう? 解ったでしょ? 私達は、今のあなた達とほとんど変わらない存在だって事が」
「―――いや、違うお前らは化け物だ」
 俺の言葉に、目の前の女が動く。
 もうこの位置からでは、彼女がどんな顔をしているのか判別がつかない。
 そこにいるのは、ただ黒い影だ。
「お前はさっき意味を与えた、と言ったな。意味って一体何だ? それがお前の言う革命か?」
 クスリ、と笑い声が漏れる。
 笑ったのは誰だ。
 目の前にいる、幣原美枝という化け物か。
「・・・・・解ってないのね。言ったでしょ。私達は吸血鬼とは違うわ。私は仲間を増やす為だけにここにいる」
「何だと?」
「私とあなたが同じクラスだった時、私はいつも独りだった」
 思い出せない。
 覚えていない。
 幣原美枝は、同じクラスだったのか。
「私と同じ姿をしてるのに、言葉が解らない、何を考えているのか解らない。あの時の私には、あなた達が、化け物に見えた」
 化け物。
 言葉が、脳の底でぎちぎちと反復する。
「何故だか分る? 答えは簡単。私があなた達の非日常だったからよ」
「―――非日常」
「そう。あなた達という日常にとって、私は少数であり、異質な存在だった。異質な非日常は、弾かれ、淘汰される」
 昔、誰かが言っていた。
 特別な事の繰り返しこそが、日常なのだ。
 あれは、あれは誰の言葉だ。
「だから、私が今の私になった時、思い付いたのよ。もしも、逆になったらどうなるんだろうって」
「―――日常と、非日常」
「それが逆になったらどうなるんだろうって。私が独りじゃなくなって、あなた達が独りになる。そうすれば、世界はどんな風に変わるんだろうって」
 まるで夢を見る少女のような声色。
 おかしいじゃないか。これじゃ、まるで化け物らしくない。
 目の前で喋っているのは、許容出来ない化け物なのに。
「―――詭弁だ。それが、お前らが人間を食う時の言い訳なのか。化け物め」
「食う? やはり貴方は勘違いをしている。私達は、化け物でも侵略者でもない。世界とそこに住む人間の認識を変える事が出来る革命者なのよ」
「ふざけるな! 革命者? お前らは人間の敵だ、そうだろ、人間を別のモノに変えるなんて、化け物以外に何がある!」
 四肢が痙攣しているのが分る。身体に力が入らない。もう立っていられない。
 ―――だというのに、何故、俺はこんなにも力んでいるのか。
 俺は何に怒っているのか、何が許せないのか。
 あれだけ確かだった世界が歪む。
「いくら世界の構造が変わっても、そこで生活する人間の認識が変わらなければ意味はない。だってそうでしょ? いくら新しい法律を作っても、従う人がいなければ意味がない」
「・・・・・き、君たちは、認識も変えられる、という事か?」
 後ろにいたはずの英嗣が、前に出た。
 ―――止せ、行くな。
 何とか止めようとするが、腕が上がらない。声も出ない。ここで俺が動いたら、俺はそのまま崩れ去ってしまう。
「ええ、私達と同じになれば、自然と認識が変わり、新しい世界を日常として受け入れる事が出来る」
「それが・・・・・・新しい、日常」
 ぎちぎち、と何かが笑っている。
 こんな世界が。暗闇で赤い眼を爛々と輝かせているような奴らの世界が、日常になる。
 それこそ、笑えない冗談だ。
「―――ッ、そんな、そんな世界が日常になるか!」
 肺の底から捻り出すような声。
 それでも、この馬鹿げた非日常を覆すには至らない。
「なるわ。日常というのは、非日常の繰り返しに過ぎない。どんなに馬鹿げた世界でも、それがずっと繰り返されれば日常になる。重要なのは繰り返し、決まった非日常が連続して起きれば、それはもう日常と言うものなのよ」
「そ、それは―――」
「だから、どんなに信じられない地獄の様な非日常が起こっても、繰り返し起こればそれは日常なの。覆しようが無い絶対的な感覚。日常に逆らう者はどんな場合でも異端者でしかないわ。今の貴方のように」
 耳障りだった。
 全てが疎ましく、喧しい。
「はっきり言って、私達がどんなに化け物じみてても関係ないの。どちらが正しいのか、何て事にも意味はない。重要なのは、どちらがより多く普遍的で、どちらがより少なく異質かという事だけ――」
 煩くて仕方がない。
 まるで子供を諭すように話す黒い影が。
 哀れむような目で俺を見る英嗣が。
 瞳を赤く染め、別のモノとなった母親が。
 暗闇の中で蠢く、赤い眼をした見知らぬ隣人達が。
 そんな狂ったモノが存在するのに、日常を主張する世界が。
「――――何故だろう」
 みんな理解しない。
 理解出来ないのか、理解しようとしていないのか。
 俺だけが正しいのに。
 この狂った世界で、俺だけが唯一残った日常なのに。
 おかしいじゃないか。
 これじゃあ、まるで―――
「俺が、非日常みたいだ」
 そこが、辿り着いた場所だった。
 用意してあったその言葉は、まるで自身が大正解であるかのように、俺の頭の中に侵入してくる。
「そう、貴方は、この世界の中で、紛れもない異分子――」
 ぎちぎち、と音がする。
 さっきから鳴っているのは、頭の中に入ってきたコレなのか。
 やっぱり耳障りな奴だ。
 こんなもの頭に入れていたら、気がおかしくなる。
 だったらこんなものは、捨ててしまおう。

「―――貴方は、非日常よ」

 誰かが何かを宣告した。
 誰が何を言ったのか、それが一体どういう意味で、俺に何の関係があったのか分らない。
 ・・・・・・いずれにせよ、どうでもいい事だ。
 そうして俺は、辿り着きたかったはずのソレを、あっさりと手放した。



   /

 暗闇が動いた。
 曖昧な現実と非現実の境界の向こうで、まるで屍肉に群がる蝿のように、奴らが嬉々と蠢くのが、手に獲るように解った。

 俺は今深い、深い夜の中にいる。

 冷たい風が前髪を揺らし、自分の輪郭すら朧げになった俺を撫でた。さっきまで俺を悩ませていた、軋むような脳の痛みはもう感じない。
 理由は実に簡単だ。
 ここは、もう俺の住んでいた世界じゃないのだ。
 俺の着ているこの服も、寄り掛かっているこの棚も、今、俺がいるこの部屋でさえ、俺が知っているモノではないのだ。

 再び暗闇が動いた。

 ここは、化け物の世界だ。
 俺の信じていた日常は、そいつらによって蹂躙された。かつてどこかで見た事のある姿をしているが、あれは化け物だ。言葉も、世界も通じない。だったら、奴らは化け物以外の何者でもないじゃないか。

 夜が辺りを包んでいる。
 これは包囲網だ。俺を逃がそうとしない、非日常の包囲網。俺にはそれが理解出来た。そして、奴らはそれを理解している。だから奴らは闇に紛れ生きるのだ。俺の見知らぬ知り合い達は、今境界の向こうで蠢いている。

 風が唸る。
 黒の方向が――少し動いた。
 かたかたと、狂った時計の音がする。
 俺は再び目を開けた。
 あれほど嫌いだった鉈が今では、手にしっくりとくる。
 夜が、奴らの日常がやって来た。
 全て理解している―――

「―――おい、いるんだろ?」

 懐かしい声だった。
 誰の声なのかは思い出せない。
 昔、毎日のように聞いていた声であったような気がするのだが、どうしても思い出せない。
「入るぞ・・・・・って、おい、返事くらいしろよ」
 遠慮がちに扉の開く音がして、光が入ってくる。
 扉の隙間から差し込んでくる僅かな光。
 でも、何故か酷く眩しい。
「なあ、聞こえてるんだろ? 勝手に話すぜ?」
 声の主は、俺の傍まで来ると、勝手に腰を下ろした。
 馴れ馴れしい態度だ。
 こいつは、俺とそんなに親しい奴なのか。
「ビックリしたぜ、お前、いきなり暴れだして、そのまま部屋を出て行って、この部屋に丸一日篭りっぱなしだもんな」
 何を話しているのか、全く理解出来ない。
 こいつは誰なんだろう。
 何故、意味の分らない話を俺にするのか。
「美枝さんには、暫くそっとしておけって言われたからさ、今まで、そっとしておいたんだけど・・・・どうだ、落ち着いたか?」
 こいつは誰なんだ。
 その顔が見てみたくて、目を開けようとする。
 でも―――開けられない。
 外の世界が眩しすぎて、とてもじゃないが、目を開けられない。
「確かに、お前の混乱振りも分るよ。いきなりあんな話されても困るし、実際どうかなって思ったよ。でも、これは紛れもない現実なんだ」
 何故、こんなにも外は眩しいのか。
 俺はずっと座っていただけだ。この部屋の中で、ずっと座っていただけだ。なのに、何故だろう。
「・・・・・本当に、世界が変わったよ。変わってみたら、今までの疑問や不安が全て消えていったんだ。何て言えばいいのかな。何でこうなったんだろう? じゃなくて、こうなったんだからそれで行こう! みたいな感じにさ」
 こいつが扉を開けただけで、世界は眩しくなった。
 それこそ、目を開けていられないほど。
 扉の外の光なんて、高が知れている。
 なら――俺のいた部屋が暗かったという事にならないか。
「お前も、変わった方がいいと思うんだ。・・・・騙されたと思って、って言ったら変な感じだけど、このままでいるよりはずっと良いはずだ」
 部屋が、暗い。
 扉の隙間から差し込む光で、目が開けられなくなるほど。
 なら―――今、何時だ。
 部屋がそんなに暗いなんて、今は一体、何時なんだ。
「――ほら、行こうぜ。心配ない、怖がらなくても平気だ」
 薄目を開け、窓の外を見る。
 墨で塗りつぶしたような、黒一色の世界。
 今は、夜だ。
 夜は、俺達の時間じゃない。夜は奴らの時間だ。目を開いていて良い時間じゃない。

 なら―――お前は誰だ。

 俺の手を取って、立ち上がろうとする声の主を見る。
 輪郭はぼやけて分らない。
 でも、中心に輝く二つの赤い光は見える。
 あれは、目だ。
「―――ああ、やっと気付いた」
「え?」
 俺の腕を掴んだままのソレが、妙な声を出した。
 理解出来ない、といった声。
 それは当然だ。
 お前は、化け物なんだから。
 夜に出歩くなんて、赤い目をしているなんて、そんな異端者は化け物以外にいやしない。
 なら、何とかしなければならない。
 俺の日常から、この非日常を追い出さなくてはいけない。
「方法は、ある」
 昔、誰かが教えてくれたのだ。
 化け物は、鉈で殺してしまえばいい。
 教えてくれた奴は覚えていないが、教えてくれた事は覚えている。ならせめて、俺はそれを守らなければ。
「お、おい、大丈夫か? 気分でも悪いの―――」
 最後まで言わせなかった。
 力なんか必要ない。こんなに近いんだ。例え、相手がどんな化け物でも外しはしない。
「―――ッ、――――ァ、ォ―――――ッ」
 化け物が何かを叫んでる。
 崩れたのか、逃げ出そうとしたのか。俺から離れようとする化け物に、二撃、三撃、と鉈を振り下ろす。
 もう、生きてはいないだろう。
 例え、生きていたとしても死に体だ。ほっておいてもいつかは死ぬに違いない。
 それでも、コレは化け物だ。
 俺は馬乗りになって、止めの一撃を振り下ろす。
「――――ァ、」
 肉と骨と、命の切れる感覚。
 扉が閉まったのか。光は消えた。
 ならば、もう眩しくはない。
 絶望的なほど甘美な感触を確かめながら―――
 俺は、初めて目を開いた。
「――――、――――英嗣?」
 知らず口をついていた。
 懐かしいと思っていた声の主だった。
 毎日聞いた気がしていた声の主だった。
 でも、何故そんな気がするのか。何故思い出すことが出来ないのか、俺には理解出来なかった。
 でも―――
 閑散とした親友の住むマンションの一室を見て。
 驚愕と絶望に顔を歪めるソレの死に顔を見て。
 自分の振り下ろした鉈の刃が、貫くソレを見て。

 自分が殺してしまった、親友の死体を見て。

 俺は、現実を取り戻した。



後日/

 駅前には、誰もいなかった。
 時間は昼を少し過ぎたばかりだというのに、あれほど賑わっていたショッピングモールも、学校帰りに寄ったファーストフード店も、閑散とした姿を晒している。
「まるで――ゴーストタウンだな」
 自分で口にして、おかしくなる。
 ここはゴーストタウンなんかじゃない。今、街中では住民達が安らかな睡眠を取っている。亡霊のように街を歩いているのは、俺の方なのだ。
「さて―――」
 駅を離れて、大通りに出る。
 走る車はないが、路肩には車が大量に停めてある。持ち主には悪いが、この中のどれかを拝借する事にしよう。歩いてもいいのだが、歩いて行ける距離など高が知れている。これから、俺がこの世界を拒絶して生き続けるなら、足は速い方が便利に違いない。
 お前の言う通りだったな―――
 俺が信じていた日常なんてものはただの幻想に過ぎなかった。それは、多分あの時、あの部屋で幣原美枝の話を聞く前から理解していた事だったのだ。
 それでも、俺は認められなかった。
 世界が変わるとか、人間が変わってしまうとか、そういう次元の話じゃない。俺はただ、自分の世界が崩れていくのが我慢出来なかっただけだ。
 父親がいて、母親がいて、英嗣がいて、馬鹿みたいに平穏な生活を送る。俺の周りにいる人間は誰も傷付かず、失われない。小説やドラマみたいに、必ずハッピーエンドがやって来る。
 酷く自分勝手で矮小な世界。
 俺はその世界から出る事が出来なくて、奴らを拒絶し、英嗣を殺す事で、その世界を許容した。
「―――これにしますか」
 手頃な普通車を見付け、窓ガラスを割る。これで配線を弄ればエンジンが掛かるはずだ。これは、昔、親父に教えてもらった事だった。
 迷ったけれど、英嗣を殺した鉈は持って来ていた。
 親友を殺した鉈を持ち歩く。多分、昔の俺なら耐えられないほどの行動。
 でも、何となく愛着があったし、こうでもしなければ、この世界を生きていけそうにもない。
 俺は、狂っているのだろうか?
 答えは否。残念ながら、俺は正常だ。
 狂っていたなら、どんなに幸せだっただろう。
 奴らを非日常だと罵り、自分の世界に篭ったまま死んでいけたらどんなに素晴らしかったか。
 でも、それは叶わない。
 俺は、英嗣を殺すという非日常を作り出して、自分が非日常であると認めてしまったのだ。
 自分が、日常から漏れ出た非日常であると。
 それに気が付いた時は、意外に安らかな気持ちだった。英嗣を殺した事も、自分の置かれてる立場も、あまり関心がない。
 理由は簡単。
 結局、俺は自分で自分の世界を壊してしまったのだ。
「―――上手くいった、な」
 腹に響く重低音。
 うろ覚えの技術だったが、何とか自動車のエンジンは動き出したらしい。
「さて、まずはどこに行きますか」
 どこへだって構わない。
 俺には選択肢はもう残されていないのだ。
 この世界が日常であると認めた上で、非日常として生き続ける。
 それは、英嗣を殺した瞬間に決まった俺の在り方だ。
 車の免許など当然持ってないが、まあ、問題ないだろう。走ってる車は一台もないのだ。道は空いている。
「――――ははっ、行きますか?」
 何故か笑みが零れる。
 世界にたった人だけ、というのも悪くない。
 夜まではずっと走って行けるのだ。
 俺が思う限りどこまでも、どこまでも。
 夜の包囲網は決して異端者を逃がしはしない。漆黒の夜は、そこに落ちた異端者の色など糸も簡単にかき消してしまう。
 だったら、昼間を走ればいい訳だ。
 大丈夫。
 俺は、全て理解している―――

 ―――奴らは夜にやって来る。

   完


[あとがき]
 エセ吸血鬼モノ。
 話のネタを考えたのが、確か高校生の時。当時読んでた「呪われた町」と「屍鬼」の影響で吸血鬼をやろう!と思い立ったのが切欠のような・・・
 それにしても、だいぶ方向性が定まらない話になってますね。
 テーマとお話ははじめから決まってたんで、苦労はなかったんですが、どう表現するかで迷走してて、ホラー口調なのか、サスペンス口調なのか・・・? ホラーってよく分らないところが怖いってあるじゃないですか? それをやたら説明臭い俺の文章で、ホラーやろうってのは無理な気が・・・今更になってしております。
 ちなみに、主人公には名前があります。あるんですが、何か名乗るタイミングを失って、ずるずると名無し君に・・・(笑) 一人称は面倒くさいな、と思う今日この頃――